現代社会で生きる事は正常な判断能力にどのように影響するのか。
皆様こんばんは。
昨日から本を読みながら色々な事について思いを巡らせていました。
昨日から主に呼んでいる「覚醒剤の社会史」では、アルフレッド・Rリンドミスが提唱した依存理論をもとにして、政策研究が行われた部分を読んでいます。
戦後のGHQの占領下から現代まで発達した日本の社会は、多くの場面でアメリカの意思が反映されますので、ドラッグ政策もアメリカに準じた犯罪化政策が行われています。
ですが、リンドスミスは依存の医療化政策を支持し、それによって闇市場の発達を抑制する手段が有効だと唱えています。(実際にスイスなどで行われています)
ですが、あくまでも抑制するですので完全には無くならないでしょう。
この本を読んだのちに、様々な考察を行っていたのですが、表題のテーマに辿り着きました。
多くのSNSから離れて、最近全てのアカウントを削除しました。それに伴って、自分の思考がどれだけ無駄な情報に影響されて考察されたものだったのかに気付かされたのです。(SNS歴は18年くらいでした)
気付かされたというか、そもそも正常な判断や思考が出来ていたか微妙に感じます。
限定されたコミュニティでの活動、いいねの数に一喜一憂する日々、誰かの投稿を拝見して自身の立ち位置を確認した際の不確かさ、それらの影響に伴って思考する自分が意識している感情が、果たして自分の思考だと言えるのか?と疑問が生じたのです。
自分が今まで生きてきて、自分の頭で全て考え抜いた事は何かあったのだろうかと疑問に思いました。
正常の定義とは、変わったところがない事ですが、現代社会は正常という状態から判断すると、正常とは言いがたい側面が多く存在している印象を受けます。
上述したリンドスミスの依存の医療化政策ですが、この医療化政策とは反対の制作に犯罪化政策があります。
この二極化の議論がそもそも正常ではないのではと感じるようになりました。
我々人間という存在がありドラッグの成分の素となる植物の存在があります。
その成分は、脳内の受容体に結合する事でその効果が生じます。疾患に必要な場合に使用しても依存形成はしませんが、何もない状態で使用し体が退薬の苦痛を認識すると依存が形成されるのですが、
これは身体の機能の問題です。自分の意思で依存のコントロールが出来ない機能が生まれつき備わっているのです。
ですので、法律で禁止されている場合ドラッグを闇のルートで購入する事は犯罪ですが、依存形成された事は犯罪ではないのです。
まだ全て読んでいないので何とも言えないのですが、ドラッグ政策を犯罪か病気かという問題だけで考えずに、
犯罪化政策を推し進めていくのであれば、購入した事は犯罪として依存になった部分は医療で治療していくという形が正しいと感じました。
ですが、これは本日までの考察ですので、いずれまた私の考えも変わるかもしれませんが。
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都筑裕子